伝授される人間と出禁になる人間
今日は人間関係についてヅラヅラと書いてみようと思う。まずは、散鍼を皮切りに・・・。
本屋さんの散鍼は「僕の両手でやる散鍼はシュガイザー先生から習った(盗んだ)ものです」(本屋さん談)といわれる技(笑)で、「皮膚をみる」(谷岡先生の言葉)ことに興味があったワタシは、初めて本屋さんにお会いした約2年前から追っかけ続けている技である。一見するだけでは分からないこの動きは、しっかりと段階を経て習わないと身につかないと思える。一般人には。 実際に、「こうやって器用貧乏にやって出来た気になって、ちょこちょこやってるとちょっと気持ちいいかなあだけのバッタもんになるよ」と本屋さんはよく言うし、事実そうなってしまった人を何人も見ている(多分本人は気がついていなかったりする) 。本屋さんは、散鍼について語り始める前に、1000人以上に散鍼をしてみたそうだ(巨鍼も数えているようで、先日は確か800人台だったような気がする)。 また、シュガイザー先生だって、「開業するまでに一万人の患者さんを診よう」と志を立て(実際には9600人台位だったそうだが)それだけの患者さんに触れてから開業し、今日に至っている。こうしたことを忘れちゃいけない。シュガイザー先生にしたって、あの唯掌論を生み出した背景は、この散鍼や鍼が上手くなりたかったという情熱からだそうだ。一定以上の情熱があれば、一人でもその境地に行き着く例はありはするが、一般的にはかなり難しいのが相場だ。一子相伝の古代の世界ではこういった情熱ある人々しか鍼灸師になれなかったのであろう。あんな適当な国家試験を通れば済む、今とは違うのだ。名字から言っても、ワタシなんて間違いなく百姓であったに違いない(笑)。
さて、散鍼とは皮膚表面を扱いながらも、患者の内部をもいじくるものでもある。なので、逆に術者の気持ちがダイレクトに伝わる手技という怖さもあり、半人前の人間が行うと「方針が決まらない迷い」や、「感じ取るべきものが分からず闇雲に触っている」ということがバレバレなのである。このように、上ずった気持ちで施していると、「この先生、経験ないわ」という術者への不信感が芽生えてしまうわけだ。逆に、間違った豪快さをもつ人物が散鍼に取り組むと、それはそれで他人の家にドカドカと土足で踏み込むような「不快な」感覚を味合わせてしまい、患者のガードが固くなってしまう。
本屋さんは散鍼を先ず、体のある部分から始める。というのも、術者主導で患者に身をゆだねさせるタメだそうだ。この技を駆使すると、ワタシのような小娘が60代お偉方を相手にしても、「治療」が始められるという仕組み。押しの弱い容姿とはかけ離れた本屋さんがこういう小技を駆使する辺り、「何事も小技の連続かぁ」という感慨に陥るのだ。意外に思われるかもしれないが、本屋さんは「そこまでやるか」というぐらい細部にわたり丁重に治療を進める。《気遣いの芸術域》を見事に表現されている。
先日の経絡経穴の講義の後、かねてから散鍼を習っている学生さんが事務所に手解きを受けにきた。最近、本屋さんを見習って「いかに寝ないで済むか」をテーマに研究中のワタシは見えつつある秘儀のお陰で、前日3時間睡眠でも講義が終わるまではどうにかいつもと同様にちょっと意識が飛ぶぐらいのレベルを保つことができた。が、事務所に辿り着いた途端に電池が切れ、目も半開きに「指導されている間、別の部屋でお昼寝してもいいですか」とお願いするしかなかった。が、「今日はちゃんと見てあげたいから、モデルになってもらえる? 寝てればいいから」と要請を受け、後ろめたさから解放されて喜んでモデルを買って出た。本気で寝入るまでの数分で、モデルの役目を果たさねばと、シャットアウト寸前の感覚神経を奮い立たせ、お二人の散鍼を受けた。
このような実地指導を受けるのは初めてであったであろう学生さんはかなり緊張した面持ち。手の重さ、つまり重心のかけ方、体の向きの悪さ、使い方の間違いや、接地面積が少ないことから分かる遠慮している精神状態などが伝わってくる。それとは別に、学生さんの持つクセもよくわかる。散鍼ほどその人の個性が露呈する手技も珍しいのではないだろうか。そのクセをまた本屋さんが指摘する、そのやり方が独特で、まずその拙さを上手く捉えて真似してみるのである。「こんな風?」「いえ、もうちょっとバラバラっという指当たり」というやりとりを3回ほど繰り返すと、もう拙さが再現できる。その上で、「ここを修正してごらん」と的確に注意を出すのである。完璧に、個々に合わせたオーダーメイド的指導法である。その後、もう一人合流して口伝公開が繰り広げられていたようである。後から来たもう一人の人はもう臨床歴も長い先生だが、「凄い秘伝満載! ここまで言っちゃうかって感じだけど、本屋さんの散鍼は自分がやりたいことそのもの」と評する。ワタシはもう寝入ってしまったので貴重な機会を水に流してしまった・・・。あそこで、むりやり起きていれば・・・と後悔先に立たずである。
散鍼には肌の上を進むべき方向と、側がある。こんなに回数を見ているワタシでさえ気付かないことが多々あり、いまだに新しい発見がある。「オメェの目が節穴なだけだろうっ」という声が飛んで来そうである。養老先生の「出力が違えば、入力が違う」という言葉を切り返しに使ってしまおう。本屋さんの受け売り(笑)。
節穴ついでに思い出したが、実は巨鍼をしばらく禁止されていたワタシであるが、時期を見て、身を挺して指導をしてくれ、解禁にしてもらえた。しかも、苦労していた切皮が足の角度を変えるように言われただけで「ポンッ」と簡単にできてしまった。こういうように、段階を見てモノを教えくださる考えには、ただただ敬服するばかりである。「これは伝統的なモノを教わる上では当然のことだ」、と涼しいお顔で言いのけるのだが、神業に近いと思わずにいられない。ただ、本屋さんと同様に伝統的な武術をやられている本屋さんの兄弟弟子が、ワタシの治療を受けた後に下さる感想・指摘は、本屋さんと同じ匂いのする、非常に示唆に富む「段階的指導要素」がたっぷりである。
彼らは生まれながらに伝統を引き継ぐ環境で育ったわけではない。20歳ぐらいで、その道に入ったのが大半なのだろうと思うが、師と、どう人間関係を結んで、コアな部分を伝授されるかという思想が身に染み付いている。「伝統的なモノ=人間関係(師弟関係)」と言い換えるとはっきり見えてくるかもしれないが、鍼灸だって同じ伝統的なものであるのを肌で感じ取っている人はかなり少数であると、本屋さんの影から見ているとそう思える。40近ければ当然のように、この仕組みが肌に馴染んでいる人も普通にいるが、30代前半では半数以下、20代に至ってはたま~にお目に掛かる人物が居れば「希望の光」と崇めたくなるほど、惨憺たる現状である。もちろん、ちょっと前の世代では徒弟制度の「弊害」もあり、それに潰されている人もいなくはないが……。
徒弟制度で成り立ってきた鍼灸の伝承に限らず、日本の社会が、戦後の学校教育へと移行するに当たって、失った部分は《技術》と、伝承を成り立たせる《人間関係の構築の仕方》であろう。学校制度に乗っかって、《お金を払って、与えられたものをこなして、資格を取る》のに馴染みきった人間が、「もっとリアルなモノを見たい」と《技術》目当てに外へ出てゆく。熱心なので行動力はある。が、《人間関係の構築の仕方》を度外視しているため、いつまでもコアな部分に触れられない。この自分で作っている落とし穴に気付かないために、お金も時間も労力もロスをする。これぐらいなら、自分の不手際であるから「要領が悪い」と言い訳して対外的にも済まされるが、本当に怖いのは、失礼を重ねた結果の《縁切り》である。「二度と敷居を踏ませない」という感情を先生に抱かせれば、もうオシマイである。大抵、こういう先生方は腹が決まっているのでリベンジは効かない。
えらそうに書いてしまっているが、ここまで読んで、ちょっと、身の危険を感じた学生諸君が居れば実は本望である。が、諦めないでもらいたい。冷静になって周りを見回して欲しい。実力ある先生の後ろには必ず、先生と個人的な関係を築いた《金魚のフン》が一人や二人居るはずである。彼らはどうやって《金魚のフン》を許されているのだろうかを考えてみるべきなんじゃ? さらに、観察を進めると《金魚のフン》には2パターンあることに気付くはずである。その先生だけに付いている《金魚のフン》と、実力&魅力に満ちた先生方複数と人間関係を築いている《金魚のフン?》だ。前者は、たまたまその先生と気が合うだけなのかもしれない。が、後者は違う。全く違う。例を上げれば簡単だが、前者は「あの先生といつも一緒に居るあの人って一体・・・・」と、存在意義を問われる人物である。対して、後者は強引に他人を押しのけて、後ろにくっつくのではなく、「おいで、おいで」と場所を用意して待たれている《スーパー金魚のフン》である。ワタシは《スーパー金魚のフン》の人物像を想像で書いているのではなく、具体的な方々を思い出しながら書いている。《スーパー金魚のフン》に共通していえる事は一様に、《謙虚》であることと、《やることやって、能力を高め続ける》点である。どうもこの2点が合わさると、実力に満ちた先生方は教えたくなるようである。この《高まり続ける能力》の部分に魅力を感じ、期待を込めて、普通じゃ出てこないコアなエッセンスを惜しげもなく出してしまうようである。これは、コネでもお金でも買えるものではないのである。
コネで思い出したが、鍼灸学校の入学式が終わった教室で「○○先生の紹介で」、「卒業したら、○○先生のところで働きます」という多数いらしたたコネクション系の人々の自己紹介と、「本当に習いたかったら外で師匠を見つけなさい。難しいだろうケドね」という先生の話を聞きながら、「コネも金も無いワタシは、なんて場違いな世界に入ってしまったのか」と、本気で泣きそうになった。1週間ぐらいはかなりブルーであった。学校が終われば真っすぐ家に帰り、与えられた科目を消化するように毎日数時間程度勉強するのみの、芸の無い暗記勉強法を繰り返しただけの1年生であったが、大して勉強しない学生が大半の中ではこんな学習法でも功を奏した。その最大の成果とも言うべきものは、毎回授業後に質問攻撃を繰り返したワタシを嫌がりつつも(笑)、目を掛けてくれたS先生との出会いで、現在ワタシは日本有数の実力在る鍼灸家達を身近に感じる六然社へもぐりこんでいるのである。(本屋さんの目はキビシい、何処かの会長さんとか肩書きや地位や名声とかには全く関係なくシビアに実力を評価する……人相悪いからダメ、で切り捨てちゃうこともあるけど……その後大抵水野南北や目黒ゲンリュウシの話とかが続くのであるが……)
また、文章が長すぎて纏まらなくなってきた。この辺りでやめておこう。2年生の時に、ふと気付いたことがある。「要は実力か。実力つながりの先生方はキラキラしていて楽しそうである」と。(シュガイザー先生も本屋さんも鍼灸の話をしている時は実に楽しそうだ)。
この「楽しい」というのは結構大事なことだと思う。ワタシの場合は構築の仕方の方法論の一つに《楽しそう》も隠れた柱となっている。先生方にとって《楽しそう》な行事やネタを提供することで、良い気分になってもらおうという風に後から見ると動いてきた感があるが、まだまだ素人の域で、却って手間を取らせているだけでもある。しかも、某地域では「暴走丸」とあだ名される一面を持つワタシであるので、本屋さんからは片手で数えられなくなりつつあるペナルティを突きつけられている。しつこいようだが《人間関係の構築の仕方》も実力なのだ。ワタシ自身の情況は常に背水の陣でありながらも、いつも仕事をサボってブログを書いている。「両手で数えられなくなったら、足の指も足してくれるかなぁ」と淡い期待をこめつつ・・・。今回こうも嫌らしく綴っているのは、《楽しそう&良い気分》の真逆である《面倒くさい》件を一掃したいという「願い」からであった。ワタシ主催の勉強会にいらしてくださる学生諸君にも、ご理解いただければ幸いです。
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