白忍者「タレント性」を語るの巻
白忍者ことシュガイザー先生からの投稿です!真夜中の『診極図説』執筆活動中に浮かんだそうです。う~ん、噛めば噛むほど的な内容です。どうぞ数回お読み下さい。以下↓。
私の地元に法要寺という日蓮宗の寺がある。夏休みになると、境内はラジオ体操の会場となるわけだが、参道に黒地にピンク字、黄色の縁取りで「多恋人」 と掲げるスナックがあった。大人の秘め事をひと目で子供に理解させる優れたネオンである。「タレント」を当て字で「多恋人」とするのは、こうした業界 の常套手段であろう。そういえば、九大医学図書館に伺ったおり、正門の通りにも「多恋人」を見た気がする。神戸市内で車を流していて「愛弗(アイドル)」という看板をみつけた。「多恋の人」には大人の駆け引き、気持ちのやり取りが介在して人間臭さがにじみ出ているが、「愛=弗」ではあまりに守銭奴的、資本の原理に則り過ぎてはいないだろうか。恋愛もカネが解決する世の中ってことなのだろう。
それはさておき、鍼灸はどうか?
私は「多練人」であるべきだと思う。
鍼灸師には「タレント性」が要求される。さもなくば、わざわざ痛みや苦しみを我慢して、実費を捻出して治療室まで何度も足を運ぶまい。
電話で声を聞いただけで痛みが軽くなる
あした診てもらえる安心感でぐっすり眠れる
治療してもらったから安心して何々できる
タレント性とは、決してビジュアルではない。患者の生活の一部になることである。
いざというときの安心感を提供しつづけることである。だからといって、決して依存性を与えるような真似をしてはならない。
タレント性とは、「多」「練」によって生ずるものである。
「多」は、はじめ「量」からこなし、しだいに「質」を高めていく。
「練」に終わりはない。糸目もない。
自分が納得するまでというが、じつは納得したら終わりである。
糸目で、ラジオの話を思い出した。躾という言葉がある。躾は型に嵌めることではなく、仕付け糸のようなもの、仮縫いだという。流派・流儀に依存する輩は多い。躾けて欲しい、型に嵌めてほしい、つまり他人に依存しないと自己規定できないのである。学校教育も、流儀修得も、古典講読も、科学実験も、所詮はすべて仮縫いである。EBMなんてものは、他人の事情であって、二度と来診しないかもしれない一回性の臨床の参考には、ほとんどならない。EBMを芸術だなんてもてはやす 風潮もあるが、料理そのものより、料理のテキストや評論が好きということで、養老孟司の言葉を借りれば、スルメを見てイカが分かるか!絵に描いた餅と はこのことである。
古典に書いてある、書いてない、といって喧々諤々するのもどうかと思う。私は古典ハンターだが、書いてある、書いてない、ってどれほどの古典を目にしたのだろうか?お里が知れる。
流儀なんてものこそ、ふつう三年もすれば教えることは無くなるはず。多賀大社フォーラムを5回で打ち切る所以である。それでも長すぎる。よい手・よい鍼・よい文献だけあれば、流儀なんて必要なくなるはずなのだが、よい手も、よい鍼も、よい文献も、最後は自分で見つけざるを得ない。現に私はそうしている。
学校にも携わるが、私のは狂育であって教育ではない。この道を選んだ時点ですでに手遅れだということを、ひたすら訴え続けるだけである。
仮縫いは、学校や流派や古典やデータが与えてくれるのかも知れないが、本縫いは自分でするしかない。本縫いができた段階で、仮縫いとはオサラバホイ。 糸を抜くのも自分自身である。私は、幾つもの仮縫いを試し、何回も糸を抜き、いまだ本縫いには至らない。不安定、いな非安定を愉しめるか、それが「多練人」のタレントたる故である。型に嵌ったら懐メロ歌手……、あの人は今……、もうお払い箱である。生涯現役とは、実は本縫いをしないことで、そんなジレンマに付き合えるかが臨床家の度量のように、いまは考えている。
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