10月以降の寺子屋予定
遅くなりましたが、前回の寺子屋の感想です。
「ワンモーション」「最密位」「身体を使う」
「仕組みを変える」
手元以外の場所でどういう仕事をしているのかが大事なことはわか
受けて感じたのは、
また、どんな操作でも変化を出すためには、つながりを意識して、
寺子屋のあと、片麻痺の方を施術している時に
腸腰筋を意識して踵骨の離解もどきをしてから軸を作って足を回す
麻痺側がいつもよりも広い範囲で解放された感覚があり、
その後、いつもより安定感が出て、
■実技についての(練習してみての)感想
以下、実技の細々とした感想です。
1.<仰臥位で足部を把握して引き、つま先を外に向けてから戻す>
前置きでコレをやります、と<両手で足部を把握して引き、つま先を外に向けてから戻す>という技。
足を取った時と戻す時で、置く位置とで脚の角度が少し変わっていたので、股関節の方までちゃんと刺激が通るようにセッティングする目的のも の、つまり別伝での「足をほど良い位置に置くだけ」の技を分解して見せていただいたものだと感じたのですが(そしてその後、寄金先生ご自身で もそうおっしゃっていたと記憶しておりますが)、別伝に出ていなかったら、飲みこみの悪い私は、あの流れでは何が起こっていたかサッパリわからなかったことでしょう。
結婚前から練習台にし続けた妻は次第に身体の感覚が鋭くなり、
2.<仰臥位で足の牽引&外回し>
「技術は、普通だんだん簡単な方からはじめて精度を上げて行く、という場合が多い、例えば、鍼ならばより太い鍼を刺すことからスタートして、 だんだん細くしていく。だけど、かすみ鍼なんかはそのアプローチだと上手く刺せるようにならない。積み上げていくのとは別に、一足飛びにいくようにしないと習得できないものがある。今日やることは、そんな感じでちょっと難しいです」
……という前置きで始まった今回のメインだった脚の操作、目下練習中ですが、あいての体をとりつつ、股関節、膝関節、距踵関節の離開を同時に 行ってアライメント調整を行う……という、考えてみれば欲張りな技です。
「なぜ外回しなのか」
妻をエジキにして、とりあえず脚の各関節の可動(特に股関節)がしやすくなる、歩きやすくなる……というところまでは出来てきましたが、距骨と踵骨の離開しているところの手がどうしても硬くなり、痛みをともないがちなので、そこを最小限の力で……ということが目下の課題でありま す。
3.<仰臥位で胆経を刺激しつつゆらして、風市の圧痛を取る>
前の<足の牽引&外回し>を練習した後にこの技を見た時に、
「もしかしてこれは、足根部の関節に刺激を入れつつ運動を作ってアライメントを変える、という点で、<ゆらしで風市の圧痛を取る>のも<足の牽引&外回し>のも同じではないのか」
と感じたのですが、その後、デモに私を使っていただいた時に、「どんな揺らし方でもいけるんです」と足を揺らす動きとは別に、丘墟あたりに刺激を感じたので、「やっぱり!」と別伝に出続けていた甲斐が少しはあったか……とわずかばかり増長し、「動いていないところをこそ、見よ」と いうのは重大な教えだなァと感じました。
また、デモで受けさせていただいたので腓骨のアライメント矯正にもなるのだ、ということが実感でき、大変ありがたかったです。
これは妻で実験をしてもはじめナカナカうまくいかず、風市の圧痛が微減どまりでした。何度かやると、膝を立てるときにうまく力を抜かせられて いるかにかかっているので、先の<足の牽引&外回し>で股関節〜足関節がゆるまっていると効果の出やすさが違う、ということがわ かりました。
ここまでの、1の<足部を把握して引き、つま先を外に向けてから戻す>で膀胱経を通し、2の<足の牽引&外回し>で 腎経を通し、次にこれで胆経を通す、ということなのかしら、じゃあ次は肝⇒胃⇒脾といくのかな……?などと妄想しております。
4.<座位で膝蓋骨を動かしてあごの可動域を変える>
ひとをびっくりさせるのにもってこいの技ですが、考えてみれば、そもそも胃経で顎⇒膝が繋がっているという概念自体は知っているのに、あの技で驚いた時点で、知っていることを全然活かせていないということでもあるわけで、これもまた「負け」でした。
たまたま顎関節を動かす時に痛みがある、という患者さんがいらしたので試しに膝蓋骨を動かしたところ、確かに左右差があり、その中でもとりわ け動きにくい方向、というのがありました。
膝蓋骨を動かすこと自体では少ししか顎の動きは改善しませんでしたが、膝蓋骨を止めているであろうコリを順にとっていくと、あごそのものには あまり触れずにあご可動時の痛みは大部分解消。これもおそらく、魔法のように効かせるには、初期設定が課題なのだろうなァと思っております。
5.<仰臥位で逆の脚の解谿あたりを打って、脚を矯正する>
デモに使っていただけて感謝ですが、不意打ちだったので、驚きました(笑)。
いただいた資料(『コアセラピーの理論と実践』)に沿って言うと「叩打刺激で伸張反射を起こして、大殿筋ベクトルを正常に戻して仙骨マルアラ イメントを調整」しているのでしょうか……?
自分の身体で少しでも実験してみようと思い、一文字腰をやったときに仙腸関節に若干違和感の出る側の逆の足の解谿あたりをポンと打つと、確か に違和感が減ったり消えたりしますが、自分のカラダなのでまだいいですが、相手がある場合は事故なく使うのがとっても難しそうです(まだこれ は、妻にも試していません)。
6.<伏臥位で膝裏に刺激を入れて、膝関節の可動域を広げる>
これまでは伏臥位で膝を持ちあげて落として……の上級バージョン、触れるだけで(霊手指圧か愉気か……)で膝を曲げやすくする技。
ディアブロでゴテゴテ装備をつけまくっていたり、システムエンジニアをやっていた頃に便利そうなツールを端からパソコンにぶち込んでいた身からすると、余計なものを引き算で引いて磨いていくような技術の追求とは……またずいぶんと違った世界に来たものだなァと思います。
以前、寺子屋直伝講習で八光流、皇方指圧について「〓〓を押す」のではなく「〓〓が〓〓〓〓るように押す」という口伝のお話がありましたが、それをヒントに、
「触れた相手の筋肉を、水面下に垂らしたつり針のようにして、奥の動きを感じ取る」
……ような心持ちで束の間待つやるのが、今のところ一番しっくりくる感じですが、意念にとらわれすぎても上手くいかないので、これはきっとい ずれ放棄される工夫だとは思います。
■実技以外のところの感想
1.カンギレムの哲学と、教え方
果たして、そこに書かれていたカンギレムの教育哲学や方法は、ちょっと、寺子屋のありようと似たものを漂わせていました。
哲学とは「解決からできているのではなく、問題からできている奇妙なもの」(p102)
ノートは使用禁止だったが、講義内容を口述筆記したものを配ってもらったり、テクストのコピーを配ってもらったりし た。(p106)
教師とは、得た知識を知らせる、あるいは「伝達する」ことに甘んじるだけの「知識の配達人」ではなく、「可能なもの についての魅力を目覚めさせ、引き起こす」ことのできる実践家と定義される。「われわれの役目は子供たちにギリギリまで考えさせ、問題を 与えてやることである。そして、最終学年の生徒には、彼らの知性を安心させるのではなく、不安にさせることである」とモノ—の文章は力強 く鳴り響く。カンギレムは、この不安を称賛する以外のことはせず、彼はそれを自らの主張の一つにした。(p111)
寺子屋は、単純な知識や技術の紹介ではなく、なんとなく出来ているつもり、わかっているつもりのことを、
知っていること、寄って立っている理論の無謬性をまず疑い、問い直す視点。
ついでに、ノートを取ることではなく、その場で見て聞いて感じ考えることに意識を注ぐことを求める態度。これはぜひ、カンギレム本人の著書 (いやまあ、読めるのは訳本なのですけれど)を読まねば、と思った次第です。
さて、「そもそも、治るって何だろう」という問いは(治療院を名乗っているくせに)ずっと我が粗末な頭の片隅にある問いでした。「治癒」につ いて、同書では、
では、「治癒」とは何だろうか。それは、「病人と医師とのあいだの関係の中から生じる出来事」ではあるが、その本性ははっきりしないまま である。この治療の本性について証言する言葉は、学問的なものであれ、通俗的なものであれ、「元気を回復させる、復元させる、健康を取り 戻させる、体力を取り戻す、回復する」など、病理学的現象の可逆性に対応している。しかし、生物は、ひとたび病を得れば、もとの状態に純 粋に、かつ単純に戻るということはけっしてない、というのがカンギレムの博士論文での立場であり、批判されてもなお、彼はこの立場を堅持 している。「いかなる治癒も、回帰ではない」。そうだとすれば、カンギレムにとって重要なことは、新しい状況でも、その人にとって人生は 生きるに値するほど十分に良いと思えるような生を受け入れることができる、ということなのだ。それは、病人と医師の間で成立する状況の複 雑さを示している。というのも、最終的に問題になるのは、患者が自分の生をどう考えるかに応じた、患者の主観的評価だからである。 (p48)
患者の外部に規範を求めるのではなく、患者その人の在り様に合わせること……たしかに、寺子屋や別伝で繰り返し示されてきたこと(料亭の客が 食後に薬を飲むとしたらどういう気配りをするか、なんていう話もありましたね)と通じるよう思えます。重要なことは、実存における(多少とも深刻な)ドラマとして病気を生きる病人からの視点をとることである。「生の側 に立つ」とは、統計的平均の側ではなく、その環境における規範的な能力〔環境と自己との関係を正常化する能力〕が減少した個人の側に立 つ、ということである。(p48)
治療家の側の世界観、身体観に患者さんを引っぱりこんで、治療の成否も治療家にしか判断できないものにしている「カリスマ治療家」は少なくな いと思いますが、そうした治療家の行った治療の結果はカンギレムの論理からすると、「治癒」とはいいづらいのかもしれません(以前、寺子屋で 出た、「腰痛の登山者の経絡だけ鍼で整えて、放置する鍼灸師」の話。「痛みを何とかしろ、何とかできないならば、せめて担いでいくか、それも できないならば、助けを呼ぶかしろよ」という話を思い出しました)。
とはいえ……整体などの手技療法、東洋医学やツボに対する患者さんの側が抱くファンタジックな妄想を、ある程度はプラセボ効果を生むために援用している面 も間違いなくあるわけで、なるほどこれが、寄金さんのおっしゃっていた「自分のズルはちゃんと自覚してやりなさい」という話につながるわけか……と納得したのでありました。
2.「スピリチュアルはダメよ(笑)」と「着眼高くして機を見て利せず」
カンギレムの話の前後に、フランスでの十字軍の話にからめて「スピリチュアルはダメよ(笑)」という話がありましたが、愛を謳うキリスト教が 屍山血河を築いてきたことからしても、人間の外部に超越的な「正しい」ものを想定したシステム(≒スピリチュアリズム)は、あんまり人間を幸福にしないのではないか、というのは、うなずけるところであります(中学高校とキリスト教系の学校にいた身ながら)。
ものごとを、同格の別の何かと相対的に観察したり、上位概念から俯瞰したりすれば、ツッコミどころも見えてくる。「既存のものを相対化して俯瞰する」という考え方を突き詰めた果てが仏教で言う「空」なんじゃないか、ならば実は仏教の核心であろう「空」は、反スピリチュアルな毒を含 む思想だったのかもなぁ、とも思うのですが、今度はその「空」を絶対視してしまう人もやはり出てくると言う……(笑)。
寺子屋でアレクサンダーテクニークや構造医学と中国武術の話もありましたが、人間が陥りがちな問題も、それに対する処方箋も、実は先人たちに よってけっこう示されているわけで(たとえば情報理論の基礎である二進数は易経が。たとえば量子論は老荘思想が。それぞれ「○千年前に通過し た場所」だったりするわけで)……なのに、今度はその処方箋が人を縛り始めてしまう、というあたりが実に悩ましいところであります。
『新日本鍼灸楽会草紙』に見られるがごとく、寄金先生の、身も蓋もないツッコミや茶化しは、実はある種の闘いなのか、なんてことを思います。 宮武外骨なんて、まさにその方法で(柳田國男が、南方熊楠と宮武の親交を嫌がるくらいに)政治と闘い続けていたわけで、「スピリチュアルはダ メよ」と「着眼高くして機を見て利せず」のセットには、処方箋によっかからない不安とともに歩むのが、常に生きた患者と向き合うお仕事なの よ、とお叱りを受けた気分でありました。
「動いていない場所をみる」という事に気をつけながらの数時間でした。
怖さを感じる程のご丁寧な指導で、大変申し訳なく思います。
「面」という概念ひとつとっても、鍼灸だけやっていた頃は、
「点」でしか人の身体を見てなかったのだと思います。
木を見て森を見ず
ツボ見て身体見ず
でした。
(「点」で見れてたか?というと、これも怪しいですが。)
構造医学を突き詰めた先に待っていたのが、馬歩という事実。
(お言葉を拝借すれば、「陳腐な」
この話ほど、「伝統の持つ力」を恐ろしく感じる逸話も無い。
背中の深部のコリひとつとっても、
「人は出来る事しか見えない」
という事が貫徹されていて、
「見たいもの」「見るべきもの」を妄想力で培わないと、
というお話。
臨床始めて、5年。
この5年で出来るようになった事は、単なる慣れの延長でしかなかった。
と、つくづく思います。
そこに質的な転換はなく。
手が育ったのではなく、
手が慣れただけ。
育てることと慣れることは違う。
書いてみると、当たり前の事なのですが、この当たり前(
と自分に問うと、大分恥ずかしい現状だな。と。
「着眼高ければ、即、利を見て機せず」
至言でした。
心に刻んで生きていこうと思います。