昨年も新学期に合わせてちょっと思いの丈をぶつけてみました。学生さんに向けて書いた文章をさっき読み返してみましたが、大筋考えは変わっていないので、今年は教育とは何か、これを本屋さんの教え方に焦点を当てて書いてみようと思いまぷ。
一年生の頃から通っていた寺子屋メンバーが今年で卒業&無事に合格。時の経つ早さにいつもながら驚きます。自分に当てはめても、既に学校に行っていた年数と同じだけ鍼灸師をやってきているのか・・・と改めて感慨深く思います。学生としての視点からは随分遠くなってしまったかもしれません。逆に臨床を通して、鍼灸師とはというのを考える風になってきたかな、そんな風にも思います。
勉強会に参加されている学生さん達の顔ぶれが変わっても、聞かれる話しは相変わらず同じような学校への不満と、このままじゃ臨床ができるようになれるかという不安。個々人の表現の差はあったとしても、押しなべてこの2つが問題のようです。
そういった話に本屋さんは丁寧につきあっています。業界の批判はされるけど、その反面、学ぶ意思のある人間には門戸を温かく開く姿勢は、面倒見が本当に良くてらっしゃいます。質問にはその都度含蓄のある言葉を投げますが、相手の手を取って渡すのではなく、ちょっと歩かないと取れないような位置に、ぽーんと投げたりします。人によっては壁によじ登らないと取れない位置。初心者にはすぐに拾える位置。人を見ながら、どの程度進ませるか、そんな風に答えを差し出します。
こういった一見回りくどい方法に「付いて行けない」、いやいや「付いて行かない」人も現われます。「最近の人は求道心がないからね」と、先日とある学生さんの卒業祝いに鰻をご馳走されていた場でぽろっとおっしゃっていました。求道心とは無縁な人種は離れていきますし、すぐに役立つ(でも本当は役立たない)テクニックを求める人達には難解かもしれませんが、本屋さんはご自分のスタイルを崩さずに教えを授けていきます。
ところで、昨年のことですが、帰宅の電車で読む本がないから何か買ぉ~とふと立ち寄った書店で『思考の生理学』外山滋比古著 ちくま文庫 を手に取りました。「東大・京大で一番読まれた本」という安易な帯に惹かれただけだったのですが(笑)、読み始めてすぐに「こっこれは!! すぐにブログに書かねば」という衝撃の内容でした。って思いつつ、もう半年ぐらい過ぎちゃった。520円と安い本なので是非読んでみてください。
その本の一章目、そのトップに「グライダー」というタイトルで表現されている文章。P10です。これは鍼灸学校のことを言ってるのではないか??とびっくりしました。引用してみますね。
勉強したい、と思う。すると、まず、学校へ行く事を考える。学校の生徒の事ではない。いい年をした大人が、である。・・・中略・・・、新しい事をするのだったら、学校が一番。年齢、性別に関係なくそう考える。学ぶには、まず教えてくれる人が必要だ。これまでみんなそう思ってきた。学校は教える人と本を用意して待っている。そこへ行くのが正統的だ、となるのである。・・・中略・・・、いまの社会は、つよい学校信仰ともいうべきものをもっている。・・・中略・・・学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようだ。自力でとびあがることはできない。
グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことはできない。
学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間は作らない。グライダーの練習にエンジンの付いた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。優等生はグライダーとして優秀なのである。飛べそうではないか、ひとつ飛んでみろ、などと言われても困る。指導するものがあってのグライダーである。
3年間の学生生活で、多くの方がグライダーとして立派に成長していきます。しかし、鍼灸師として独り立ちするというのはグライダーではなく飛行機でないとだめなんです。だって、患者さんと対峙するするのには、どんな時でも判断力が必要ですから。小さいエンジン、中古のエンジン、借り物のエンジン、どんなエンジンだって構いませんが、とにかく自力で飛行する原動力が無いと治療家としてはやっていけません。
では、卒業した後、グライダーから飛行機に急にモデルチェンジできるのか。それは「否」でしょう。「卒業したら考えます」このフレーズをよく耳にしますが、それじゃ「遅い」という時間のもったいなさではなく、そもそも機種が違うわけですから、グライダーから飛行機になる訓練をまた別にしなくてはならないのです。それが卒業後苦しむ数年間、「3年間はまず食えない」の背景の一因ではないでしょうか。機種の差を論じる前に、「3年は食えない」と洗脳してしまう学校教育は置いておいて、飛行機の性能アップを目標に学生時代の3年間を過ごすのと、ひっぱられるがままに優秀なグライダーとして3年を過ごすのとでは卒後が変わるのは当然です。
寺子屋常連参加者の先生方は全員がまちがいなく「飛行機」ですし、遠方からブログを読んで来られる異業種の先生達、新規参加の先生も常に飛行能力バージョンアップを積極的に計っておられる先生方です。
そして、学生もやっぱり飛行能力を備えている方が多くいらっしゃっています。今現在のレベルは治療ができなくとも、治療をするに当たっての心構え、技術、身体を手に入れたくて貪欲に本屋さんを追っかけているように見受けられます。外山先生が書いているように、彼らは往々にして学校からは危険と思われているかも(笑)。授業の批判や学校批判を直接しますからね。寺子屋参加メンバーでもある、ワタシの同級生からしてそうでした。逆に1回で参加を止めてしまう方々は「グライダー」の毛が強いかな~、そんな風に感じます。
さて、話を外山先生の本に戻します。ここからが本屋さんの教え方そのものです。これを読んだとき、その通り!!と相槌を打ちながら電車の中で興奮したのを覚えています。
教育は学校で始まったのではない。いわゆる学校のなかった時代でも教育は行なわれていた。ただ、グライダー教育ではいけないのは早く気がついていたらしい。教育を受けようとする側の心構えも違った。なんとしても学問をしたいという積極性がなくては話にならない。意欲のないものまでも教えるほど世の中が教育に感心を持っていなかったからである。
そう言う熱心な学習者を迎えた教育機関、昔の塾や道場はどうしたか。
入門しても、すぐ教えるような事はしない。むしろ、教えるのを拒む。剣の修業をしようと思っている若いものに、毎日、薪を割ったり、水をくませたり、ときには子守までさせる。何故教えてくれないのか、当然、不満をいだく。これが実は学習意欲を高める役をする。そのことをかつての教育者は心得ていた。あえて教え惜しみをする。
じらせておいてから、やっと教える。といって、すぐにすべてを教え込むのではない。本当のところはなかなか教えない。いかにも陰湿のようだが、結局、それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。
頭だけで学ぶのではない。体で覚える。しかし、ことばでなかなか教えてもらえない。名人の師匠はその道の奥義をきわめているけれども、はじめからそれを教えるようではその奥義はすぐに崩れてしまう。
秘伝は秘す。いくら愛弟子にでもかくそうとする。弟子の方では教えてもらう事はあきらめて、なんとか師匠のもてるものを盗み取ろうと考える。ここが昔の教育の狙いである。学ぼうとしているものに、惜し気なく教えるのが決して賢明でない事を知って居たのである。免許皆伝は、ごく少数のかぎられた人にしかなされない。
師匠の教えようとしないものを奪いとろうと心掛けた門人は、いつのまにか、自分で新しい知識、情報を習得する力をもつようになっている。いつしかグライダーを卒業して、飛行機人間になって免許皆伝を受ける。伝統芸能、学問がつよい因習をもちながら、なお、個性を出しうる余地があるのは、こういう伝承の方式の中に秘密があったと考えられる。
昔の人は、こうして受動的に流れやすい学習を積極的にすることに成功していた。グライダーを飛行機に転換させる智恵である。
この「智恵」を本屋さんは随所に織り交ぜて講義をしますが、月に2、3回日曜日に行なわれている身体作り、別伝講習会で特に発揮しているように思います。別伝参加者の殆どは寺子屋も合わせてお出でになっていますが、寺子屋で受動形式で受け取ったものを、別伝の会で積極的に質問している姿をよく目にします。人数が少ないからでしょうか、稽古が終わってからざらに30分は質問タイムとなっています。その場で本屋さんは質問者のレベルに合わせて実際にやってみせ、相手が納得したかを確認しています。
ワタシが企画して来た勉強会は参加者が30~50名のものばかりで、大人数だと相手の反応、理解度が見れないからといつも渋々OKをもらっていたものです。ま、希望者が多いのでどうにもしょうがないんですけど。その中でもっと教えを乞いたい方は別伝へ参加するコース、そういう熱心な受講者を受けてもらえる場ができたのでそちらへ進んでもらえれば更に勉強になるのではと思います。教える側の葛藤が緩和する人数相手に誰よりも動いて、積極的に指導されている本屋さんの後姿を見て、「本当はこうやって教えるものだ」そう言いたいに違いない、と別伝が始まってそろそろ一年ですがつくづく思います。
この本の初版は1986年です。24年も前からこういった流れが教育現場にはあったのですね。それがもっと顕著になって来ているのが最近なのでしょうか。本屋さんの教育は「教える」というよりも「育てる」だと思います。人生を切り開く力を付けさせるとでも言いましょうか、本人が自力で歩いていくのを応援している、そんな風な教え方です。ですから、手に手を取るような分かりやすいことから、本質を突く難解なお題まで幅広く、教わる側の先、未来を見て関わっている、そんな気がします。
だからこそ、長いスパンの元に勉強させてもらう方が本屋さんの意図が見えて来るに違いありません。それが分かっているからこそ、殆どの寺子屋参加者は数年間続けていらっしゃっているのだと思います。時間を掛けて磨いていくこと(これは本屋さんの武術系のお仲間がおっしゃっていた単語です)である技術や心構え、これは人生そのものと言えるかもしれません。生き方そのものが治療に現われる、そんな風に本屋さんを見ていると思います。
因に本屋さんは「じらして教えない」ということは殆どしません。むしろ教えすぎるくらいです。いらしてくれる人達の可能性を信じているので、好きなものを持って帰ればいいというスタンスで、決して自分のやり方や考えを押し付けたりはしません(だからいつも「◎◎方式に拘泥するのはおかしいんじゃない?」と自由さを求めます)。質問にも応えますが、押し付けはしません「僕はこう考えるからこうするけど、別な考えもあるかもしれない」「こういう風に考えている人はこういう手段をとるのだろう」等の解説がつきますが、大抵、質問した人がより考えざるを得ないような解説が投げ返されます。質問力が試されるのでいつも「なにか質問はありませんか?」という問いそのものが、教育になっちゃうって言うか……。そして、だけど押さえなきゃいけない事はココ、ということだけはしっかり言います。そしてその“ココ”と向き合う事が実は結構地味でしんどいんですけどね(苦笑)
さてさて、新学期が始まりましたね。グライダーから飛行機を目指して新学期を迎えてはいかがでしょうか。目標が変われば視点も変わり、行動も変わり、はては人生までも変わる。治療家とは結局、自分の足で立たずしてはなり得ないものですから。
余談ですが、ワタシもまだまだグライダーから飛行機になってきてるか、きていないか、といった程度です。ワタシの場合はひっぱってもらう飛行機が抜群にすごかったグライダー、そんなところです。見た目にはちょこっとエンジンがついていますが、これがまた上手く起動しないし、右往左往、上昇したかと思えば墜落寸前の日々を繰り返していますです(笑)。が、そうはいっても自分で操縦桿を握る世界は悪くないですよ。
本屋さんが見立てる身体観、色んなフェーズから細かく見取る技術と経験は素人目には「透視術」とも言えますが、そんな風に人体を見る事が出来たら・・・・、そのステージに登って見たいなぁ~と憧れて寺子屋に皆さん集まってくるのだと思います。
そうそう、今回の話に合わせて新しくカテゴリーを増やしました。題して《本屋さんの教え》です。ワタシ自身、治療院のペースも最近掴めてきましたので、今までを振り返ってまとめる作業を始めたいと思います。みなさんのご参考になる事を書ければ良いのですが・・・、頑張ります♪