本屋さんの教え

2014年8月22日 (金)

妊婦の動作あれこれ

引退宣言後に投稿です(笑)。産後しばらくは目を使うな、との本屋さんの仰せに「あ、そうだった」と、その助言を守ることにいたしまして、産前に書き上げておこうと思いました。妊娠9か月のころ、本屋さんに同席してもらいながらお腹が大きくても負担にならない、マイナートラブルを出さない体の使い方あれこれを撮影した時の話です。

ワタシの湯たんぽ本を作ってくれた編集さんとはその後も仲良くさせて頂いておりまして、妊婦のマイナートラブル色々を体の使い方でかなり解消できるよ、なんて話をしていたらワタシをモデルにして写真を撮っておこう!と作戦会議が進みました。編集さんのご主人がカメラマンさんなので、うさぎ堂を撮影場所として座り方、立ち方、掃除機の掛け方、寝方などを撮影しましたよ。これは資料としての撮影でしたが、いずれ公開できる時が来るのかもしれません。ワタシもどんな風にまとまっていくのか楽しみにしているのですが、彼女が骨折してしまった関係で、だいぶ先になるのだと思われます。

さてさて。皆さんと共有したいなと思ったのは、本屋さんが指導してくれた起き上がり方なんです。これは、以前にも身体の使い方講座の中で、身体を伸ばしたり縮めたりしながらゴロゴロと転がり、移動するというのがあったと思いますが、それと根本的には変わらないとのことでした。

妊婦が寝床から起き上がる動作はかなりの、よっこらしょなんです。患者さんでも向きを変える時、起き上がるときに大変そうにされている方がほとんどです。これが本屋さんの教えの通りにやってみると、なんと殆どストレスなくすんなりと起き上がれます。

仰向けに寝た状態から横を向いて起き上がるのですが、ワタシがやってみたところ、無駄なステップが多すぎる、力を使う方向が違う、とのご指摘。足をもっと体に引き付けてから回るとか、足を伸ばす方向がそっちじゃなくてこっち、等々のアドバイス通りに何回かやってみるとできるもんなんです。とても起き上がりやすい! お腹がじゃまでここまで足を持ってこれない、持ってきてはいけない、という存在意識があるんですね。これは歩き方や立ち方に至っても同じで、お腹を突き出すようにしてしまうのはこの「意識」の問題だと思います。掃除機の掛け方もそう、理にかなった動きをしていれば、掃除機かけて腰痛、なんてあり得ない…、「起き上がる動作の中でバラバラに体を動かすのではなく、一緒に動かす」。これは常々本屋さんが「初めて立ち上がる子供のマネ」付きで言われていることでした。妊婦の動作も同じだったのか!と、合点しました。妊婦=特別な状態、と思うから間違う動作も多いのでしょう。単に太ってる、お腹が出っ張っているだけと最近は思って動くとかなりスムーズに行けることを発見しました(笑)。赤ちゃんがいる、転んではいけない、という用心する心がけが足を蟹股にし、お腹を目立たせるように突出し、すり歩くようになってしまうんでしょうね。そのせいで、腰や背中のコリが生まれてしまうのですが・・・。

妊婦になる前から、本屋さんが不適当な妊婦歩きを揶揄するのを見てきましたから、ああなってはいけないと思って気を付けてきました。そのお蔭で背中や腰に余計な負担を掛けることがなかったことから腰痛も起こらず、また胃を背中側から圧迫することもなかったので、お腹が大きくなっても胃に物が入らないということもありませんでした。

臨月になると足元が見えないとも聞いていましたが、このような姿勢を取っていれば特に見えないこともないんです。多くの妊婦さんはお腹をあえて突き出してしまってるのだと思います。鳩尾を引くようにしてあげると背中と骨盤が一体になる感じになります。そして、この姿勢だと背中で呼吸ができるというか、東洋医学でいう腎に息を入れるという感じでしょうか、ストレッチをしなくても、マタニティヨガをしなくても体を楽に保てますよ。

そうそう、先月○っちゃんに「もっとお尻が下がったらいいのに」と言われました。お尻のお肉ではなく、骨盤の形のことを言われているわけですが、妊婦のお尻の形に注目していなかったので、これは目うろこでした。

  体の使い方、見方って面白いですね♪

 さてさて、ワタシはもう予定日も過ぎていますので、失礼致します。編集さんが本を仕上げてくれたらまた御知らせしますね。ではでは〜。

※9月の第三日曜日はいつものお寺がお彼岸の為使えません。ですので、春・秋の<手作り身体作りのテーマ>で別伝会場で行います。時間も午前の10時10分〜昼休みを30分位とりますが、午後の14時半位迄、講習料は普段と同様1万円です。こちらも御希望の方はいつものアドレスまで。予め連絡頂ければと思います。

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2011年2月 5日 (土)

1月の寺子屋

寺子屋の報告がすっかり遅くなってしまっております。楽しみにしていて下さっている方が居たらすみません。
さて、今年初の寺子屋も内容が濃いものでした。
ワタシは遅れての参加だったもので、講義を途中からしか聞けなかったのですが(最初は本屋さんからみなさんに御年賀で「特製七妙とんがらし」が配られたようです…)、ワタシが部屋に入ったときの空気の重々しさから「お、新年しょっぱなから本質に迫った内容を話されているな」と直感しました。

「医療は、手に職を付けようとか思って入ってきていい世界なの?」

席に着くなり耳に入ってきたのはこういう言葉でした。とても核心に迫るメッセージです。
多くの鍼灸学校が「この時代だからこそ手に職を!」と謳っており、それに乗って入学を決断された方も少なからず居るはず。普段、鍼灸師が人の生き死に接する局面は日常的ではないにしろ、その方の症状というは「心身の使い方」=「日常をどう送っているか」、突き詰めれば「どのように人生を捉えて過ごしているか」そして「どういう死に方がしたいか」という非常に個人的な部分と関わるわけです。

今現在つらい肩こり、腰痛を治すときにはそこまで関わることはないかもしれませんが、その方の仕事や育児や介護など心身の使い方の問題点が再発の大きなポイントであることが多く、姿勢を変える、筋力を付ける、体重を落とす、体の使い方を変える、心の持ち様を変える、生活習慣を変える、といったアフターケアをしないと慢性的不定愁訴等から抜け出せず、その作業には決まって個人の人生観に関わらざるを得ない場面にぶち当たります。そのときにこちらが何を持っていないといけないのか。それが本屋さんがいつも言い方は違えど伝えたいと思ってらっしゃる「自分の生き方で示す」態度なのだとワタシは思っています。それが言葉を超えた所で相手を変える後押しになる「人間的説得力」なのだろうと。

「ちゃんと生きなきゃ駄目だよ」。そう言われているのは何も品行方正に生きよという意味ではなく、「自分の軸を持ちなさい」ということなのだと思います。「だってそう言われたから」、というような他人に責任転換させる思考ではなく、「自分がそう思ったからやったのだ」と自信を持って言える裏付けを日常的に積み上げろ、大きなことではなく小さなことこそ積み上げる。そういうことではないかと。

軽い所の例で云えば、毎日毎日お菓子を食べている。健康に携わる人間がそれでいいのか、と投げかけられたときに「それでも健康でしょ」と納得させる風体を保てていればOK(笑)。これは半分冗談ですが、「先生を見ていると真似したくなる、取り入れたくなる」と云わしめるのが人間的説得力であって、生き方での提示なのでしょう(反面教師の意味でなく)。

ただし、お菓子を食べ続けていても説得できる風体というのは実はものすごいハードルの高いことだと思います。上から目線で「食べるべきではない」というのは簡単ですし、多少ストイックな部分があればこの種の我慢はそれほど難しいことではありません。
 玄米菜食主義を一貫して貫き、排他的で心身ともにギスギスに痩せて魅力のない高圧的な先生に、とあるワークショップで出会い、がっかりしたことを覚えています(菜食主義で素晴らしい人間性を備えた方は沢山居ますね、念のため)。それに比べて毎日お菓子を沢山食べているそうだけど、ものすごく壮健に見えるってのは、食だけの問題じゃ健康は解決しないんですね、例えば運動ですよね、あとはそんなににこやかに居られる余裕のある精神のあそびに人間的魅力を感じてしまうのかな、先生みたいにおおらかに日々を送らなきゃ損よね・・・、でも虫歯にはなるかもしれないからデンタルフロスを毎日しよう、血糖値は必ず上がるから食べる時間帯や量も気にした方がいいかも、そうなるとこの種の甘さが体に害がなさそうかも、などと、患者さんが勝手に思考し、考えを改め、生活習慣を改めていったら治療は治療院の外でも続いていき、患者さんの人生観をちょこっと路線変更させることができるのです。このちょこっとの路線変更の蓄積によって新しい習慣を定着させ、再発防止となり、健康を自分でコントロールできるタイプの人間になっていくことができますよね。

さて、前回だかその前だかで手根骨のばらけるヤツとかをやられていましたが、その延長なのか、今回は五兪穴の話から始まって、動きとツボの話、そして『治療家の手の作り方』というテーマに沿って、ようやく(笑)、満を持して指の練習方法が始まりました。何年ぶりでしょうね、京都医研で教えた以来かな、とおっしゃる本屋さん。教えてもらいながら参加者は一生懸命に手を動かしていくのですが、何パターンか教えてもらううちにゴチャゴチャになっていきます。それに対して本屋さんは「何をしてはイケナイのかを覚えていないからで、それは話を聞いていないのと一緒!」と、ピシリ。何かを身につけたいときは、守らなきゃいけないことを1番に、やった方が良いことを2番に。これを続けていくと2番の出番が多くなり、クオリティーが上がるというすべてに共通する普遍的なお言葉に、皆さんうなずく。

手を作りたいなら意識的に手をまず開く。体を動かすときには、大きい部分を動かすと痛めにくいというのを毎回のように注意されます。これは武術では基本中の基本なのでしょうが、体を作るというのはこういう基礎が当たり前として入っていないと土台が出来上がらないのだなぁと身に沁みます。これが治療に於いても活きてくる訳で、患者さんの姿勢の取らせ方、技を効かせる位置取りなんていう発想(鍼灸学校では欠如してますが)が出てくる土台となるわけです。だから本屋さんの手技治療法は瞬時に効くんですね。

また、これとは逆に「一番小さなものを動かして体を全部動かす」、の練習もしました。仰向けに寝た人の足の小指を持って全身を動かす練習。そりゃぁ小指をうごかせば全身が揺れるものですが、本屋さんがおっしゃるのは体の軸をどう動かせるか。つまり、小指を持って全身の症状を瞬時に取る、という「芸」に続く基礎練習です。本屋さんがやると内蔵が揺さぶられ、首の凝りが外れて体が整います。下手な人がやるとあまり揺れなかったり、指が痛かったり、ベクトルが下になりがちで把持が甘く靴下が脱げるだけ(笑)。次の段階では、小指を持つ反対の手で足首を引把持するのですが、うまく出来ないと、そこで出来る遊びを利用できずにかえって邪魔して刺激が伝わらない人…。そして刺激の戻りを待てずに自分勝手に(相手の反応を見ず)ゴンゴンと押すだけの不快な刺激となる人…。
 こういう揺らしは副作用として「吐き気」「めまい」などの気持ち悪さを引き起こしますから、むやみやたらと揺らせば良いわけではないと、安易な揺らしへの警告もありました。また、こういうタイプの人には揺らしをしてもうまく行かなかったり気持ち悪くなったりしやすいよっていう話も。

とまあ、同じ一日の中にものすごい濃縮された時間が集中するのが毎回の寺子屋なのであります。

ところで、明日は目黒鍼灸師会で開催される本屋さんの実技講習の日です。散ずる鍼(散鍼)と秘密兵器の紹介がされる模様です。

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2010年12月16日 (木)

学びの中の気付き

久々に寺子屋の感想を書いてみたいと思います。
とはいうものの、ワタシの…というよりも、参加者から頂いたものの引用抜粋ですが。


お一人目は、月に一度の寺子屋だけでなく、別伝にも参加されている方。最近の別伝は、かなりの時間が本屋さんの活法や療術の実技に割かれています。以前、北御座新伝流の先生が「言ってる事とやってる事がホントに一緒なのは本屋さんだけ…」という発言をした事がありましたが、多くの治療家は皆の前でやる事と、実際の治療の現場でやる事が一致しない事が多かったりしますが、本屋さんは、殆どまんまです。だから、その効果を知っている人は、「え、そんなことまで公開しちゃっていいの?」と思うみたいですが、本屋さん曰く「手放さないと入ってこない」……だそうです。「もっと上手くなりたいといつも思っている」とも言ってました。では引用の始まりです。(個人情報、補足説明など、若干手を加えています)

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 ここのところ一番目からウロコというか、自分にとって衝撃だったのは別伝で自分がやってみせたら、「う~ん、相手に対して敬意がないね」と言われた後、実際のやり方を丁寧に解説して頂いた時にいろいろなことが思いあたり、おおげさに思われるかもしれませんが、自分の中では価値観?というのが一新された感じでした。とはいえ、まだまだ「敬意がない」部分というのに、日々気づいて凹んだりするのですが・・・(涙)。

「難しく考えない、シンプルに考えて、シンプルにやりましょう」といわれたのを思い出して、考え方を組みなおすようにしています。

そして、人の人生に多少なりとも関わる立場に立つからには、「相手の考えていること、感じていることは本当にはわからない」という事実を常に意識においておくことと、言葉そのものではなく、その言葉によって、その人が本当に伝えたいことは何か?ということに思いを馳せて聞くという事がとても重要だと思うようになりました。

10月の寺子屋は、連続講座の一回目ということで、とても楽しみにしていました。
まず、全体を通して感じたことは、解剖学や生理学、病理などの大切さを実感。
昔は解剖図(?)が秘伝だったんですよ…というお話を聞いたあと活法などで自分なりに考えるときに、その解剖などの知識をとっかかりにできることが多々あるんだという気づきから、確かに血管や内蔵器、筋肉の位置を知っていることが、本当に重要なことだと今更ながらに実感しました

また、勉強の仕方についても、自分の使いやすいようにいかにカテゴリー分けして理解していくかが重要だなと気付かされ、以前より勉強は楽にできるようになった気がします。
そういう理解を持って、卒試の勉強をしていると、必要性を実感できてかなり覚えがよくなり、今更ながら、もう少し早い時期に気づきたかったなぁ…などと思ったりもしますが、まだこの時期に気づけてよかったのでしょう。

そして、ツボの取り方の手がかりとして三陰交と列缺を例にされた時、そうか骨際のツボはこの感覚を手がかりにカテゴリー分けしていけばよいのか!と目からウロコでした。でも、その後日を改めて、別伝の時に、本屋さんの身体でツボをとらせてもらったら「(取穴が)あまい!」という指摘をいただいて、頭での理解と、実際の自分の実技?の出来具合は、一致しないものだなぁ・・・と思いました。

 寺子屋~別伝講座ともに、毎回気づくことが多くて、やはり文章で書ききれるものではないですし、最近は多少なりとも以前より、本屋さんとお話できる機会も増えたので、改めて感想を送らなくてもよいかな? とも思いましたが、やはり文字にしておくのは大事だと思ったので自分の中でインパクトのあったことで、言語化できる部分を文章に表してみました。
 次回の寺子屋も楽しみにしています。
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余談ですが、本屋さんは、何かを習う時には、こうした言語化をして、自分の理解した事や疑問点を表現する事はとても大切な事だといつも言っています。そういう事をちゃんとしている人は、本屋さんの方もその人に(場合によってはその人だけに)分かるような指導の仕方をちゃんと心得ているみたいです。

さて、お次は、本屋さんの「1000人はやらないと…」発言を受けて、温泉地で修行をしていたワタシの同窓生K先生の後を引き継いで既に3000人に達成した後輩Dさんの感想です。

その活動フィールドである、とある旅館にたまたまワタシが予約していたのが判明し、「それならばぜひとも♪」と温泉按摩を堪能しようとお願いしました。人生初の温泉按摩を受け、その施術に関して本屋さんと話しをする機会があり、それが気付きという形でDさんへフィードバックされた経緯を、Dさんの寺子屋の感想と併せて往復書簡を載せさせて頂きます。とてもリアリティがあったので、他の方にも共有して頂けると良いんじゃないかと思う所が満載です。

11月寺子屋は石坂宗哲の墓参をほぼ参加者全員でやりましたが、その日の講義の中で、昔本屋さんが彼方此方の湯治場などで、上手い按摩さんに施術してもらった時の事が話題に出ました。いろんな人の中に、高齢の方で突出した方が二人居たそうです。そのお二人は、1人は男性北関東、もう1人は西日本日本海側で女性、地域も全く無関係なのに、技術的には非常に似たものを持っており云々……、というお話の中で、お二人の言った事の共通点として「揉みに逃げるな!」「師匠に教わったのは手を当てておくだけ」と、具体的に温泉按摩の神髄をお話しになられました。温泉に入って緩むんだから、そのことを考慮して施術するんだ、と。

寺子屋会場でこの話しを皆さんに(狙いはDさんへ向けてであったのだろうと思われます)された後、寺子屋終了後、実際にDさんに手ほどきをされていました。
旅館でやって頂いてからDさんと合うのは今回が初だったので、ワタシの感想を直接お伝えする間もなく、講義の中で突然取り上げられてしまったDさんですが、新たな4千人への旅へご出発される門出になった出来事だったと思います。おめでとうございます。

以下、Dさんとワタシのやり取り。
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(↓以下、Dさんからワタシ宛のメール抜粋)

だー!やっぱり揉み返しありましたか!
気を付けていたつもりだったんですが。。。

旅館の食事や翌日の蕎麦など、
美味しく召し上がれなかったかもですよね。
せっかくの旅だったのに・・・
大変申し訳なかったですm(_ _)m
ごめんなさいでした。。。

そうなんです、前もちらっと書きましたが、
治せないのが悩みでして。。。

Kさんは、「治療1000人」なんですが、
僕の場合、「ただ人に触った3000人」だと思ってます。

最近例えばよくあるのが、
腰痛持ちで膝裏に圧痛がある人に
58分施術しても圧痛取れず、
最後の2分間で萩原先生揺らしをして取れるという。。。

時間内に間に合ってよかったと思う反面、
おいおい58分は何だったんだという、
悶々とした気持ちを抱えてます(苦笑)

終了後、本屋さんからは、
・揉み返しを起こさない施術技術
・やりすぎた時に患者さんの体をリセットできる技術(ドーゼオーバーをある程度解消出来る技術:本屋さん注)
の両方出来るのが理想だよね 
とのお言葉と、
見た目一緒でもこうとこうでは違うでしょ?!と、
実際に背中を触って(擦って)頂きました。

強圧とか軽圧とかではなく、
“効く圧”と“効かない圧” でした。
・・・何でだ???

「活法が、リセットできる技術なんだけど、講習出てた?」
と聞かれまして、、、
今更ながら小窓をさかのぼって見まして、
以前やられてたんですね。。。○| ̄|_
出たかった。。。

卒業してからとりあえず3000人の人を触ったことで、
出来ないこと・必要なもの・やりたいこと等々がわかってきたので、
これはこれで自分には必要な3000人だったのかなとも思ってます。

寺子屋の場で「もみ返しがあった」事を指摘して頂けたり、講習後にちょっと教えて頂けたりと、自分ばかり貴重なおいしい思いをしてしまい、ワタシさんが“もみ返し損”だったなぁと大変申し訳なく。。。

来月も楽しみですので、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
Dより
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(↓以下はワタシからD様への返信です)

ご連絡せねば、と思いつつ日々が過ぎてしまいました。
本当はあの場(寺子屋でD様の事が話題になった時)でフォローに伺えば良かったのですが、
時間がなくて早退していましたし。

少し補足をせねばと思っていたのです。
「もみ返し」という程ひどいものではありません。
それは数をこなされているだけあります。
正確に言えば「右肩周りの動きがなんだか固くなった」という程度です。

「東鍼校のあん摩の授業を思い出した」と言ったと思います。
ワタシは敏感体質なので(といいつつ人には強刺激を多用するがさつ者ですが)
学生時代は「鍼は浅めで」「もみは弱めで」と周りにお願いしていました。

Dさんのは決して強めではないのですが、足りないものがあるのかも。
ワタシもさんざん言われていることですが
「愛が足りない」
「自分のやりたいことだけやっている」
この言葉の意味を施術を受けながら噛み締めておりました(笑)。

裏を返せば「相手の反応を見ていない」わけです。
卒後は主に本屋さんの手技を受けることが多く、人に触られることの基準が本屋さん手となっていたのですが、学生時代のあん摩を彷彿とさせる1時間に懐かしさと、自分はどちらかといえばこっちの世界を脱していないなとつくづく思ったのでありました。
事前にワタシのほうから感想をお伝えしようと思っていたのですが……。
勉強会の公衆の面前で突然に話が出てしまって申し訳ないと思っています。

旅から戻って本屋さんに聞いたことがあります。
「量をこなせば質が変わる、量質転換というのは一体いつ訪れるんだろう」
「ある程度の腕はあがって患者さんがリピートするくらいになったとしても、<技>のように質的に変化しないこともありますよね」

本屋さんの答えはこうでした。
「意識がなければ無理でしょう」

考える力がないと結果として人数をこなしてもある領域を脱することはできないんだと思います。
確かに人数をこなせば手が柔らかくなったり、患者さんが不快に思わない言動をそつなくできるようになったり、トークが弾んだり、また患者さんからはお声がかかるでしょう。
ワタシ自身が今この段階で、まだ階段を上りきれない大きな隔たりを感じていますし。

そうそう、具体的に右肩周辺の話をしましょう。
ワタシは足も含めて右側のほうが密集してます。緊張側。左側が弛緩。
右は必要以上に力みすぎて常に力こぶが抜けない状況で固まっています。
それが右顔面から腕にかけても緊張側として出ています。
横向きで施術して下さったときに、「固いですね、相当凝ってます」とおっしゃったと思います。

確かに固いんです。が、凝ってはないんです。
この違いが分かるのは本屋さんや○田師匠など臨床歴の長い先生です。
肩こりはずっと感じていませんが、確かに固さは抜けません。

固いですから押されれば痛みが出ます。
なので、凝っていると判断されたDさんが念入りに揉みほぐしてくれようとした「愛(笑)」が仇となるわけです。
この場合の愛は片思い的な一方的な愛であって相手の反応を感じ取ってないものです。
念入りにほぐそうと揉めば揉むほど、ワタシは「痛いよ~」と力を入れますから、翌日の固まり感が増すわけです(本屋さんはそれを数十秒〜数分で治す……)。

よく美容室で無理矢理な肩のマッサージをサービスと称してやりますでしょう?
あのときにぐいぐい押しては「固いですね」「痛いですか、凝ってますね」となる素人判断では駄目なんですよ。
固いけど凝り感は感じていないし、自覚がないっていう鈍感なことでもない。
でも、肩井は固い。
けどそこを揉んでも緩まないし、かえって固くなるから別の所を使う。
そうすると肩井が緩んでいて、実際に肩周辺が柔らかくなる。
これは、経絡按摩のように決まった手順を追って揉む世界観では見えてこないことです。

ワタシは外で施術を受けるときには決まってオイルマッサージしか受けないことにしています。
なぜなら「安全」だからです。
どんなに施術者に技がなくても、オイルで滑りますから圧が残ることはありません。
ただし、施術中のやってもらっている満足感はたっぷりと得られます。
この場合は術後効果はおまけであって、そこがなくても翌朝が同じ状態なら問題ありません。
結構普段からそんなに不都合なく整えていますので。

世の中、看板がやたらと目につく所にはそんなに腕のある方は居ないもので、とくに旅行先や駅前のように一元さんを相手にしている中では本屋さんのような光る技術を持っている方に巡り会えるほうが奇跡だろうと。

ワタシの言っているレベルは市井の按摩業界ではかなり高度なことなのかもしれません。
現に「○も○ん」などが蔓延しているわけで、受ける側はそこで満足しているわけですから。
ただ、「治せるようになりたい」のであれば、このレベルで話をしてはいけませんもんね。
道のりは長いですが、お互い頑張りませう。

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(↓以下、D様からワタシ宛に再度頂いたメール抜粋です)

貴重なメールをありがとうございます!!
とりあえず、お体の反応がワタシさんの想定内だったことに
ホッと致しました。

「硬いけど凝ってない」
このワードを見てハッとしました。
いました!今まででも数名。
触った硬さに対しての圧をかけたところ、「痛いので軽めで」と
ほとんど軽擦くらいで施術したことが。

いつの間にか『自分の物差し』で、
患者さんの“硬い柔らかい凝ってる凝ってない”を判断しちゃってました。
その人にとっての、
硬い柔らかい凝ってる凝ってないをそれぞれ判断しないと、
いわゆる「愛のある施術」にはならないんですね。

そういえば、元プロ野球選手だった知り合いを揉んだとき、
筋肉がゴムみたいな柔らかさで驚いたのを思い出しました。
でも今思えば、その柔らかさの中にその人なりの凝りや硬さがあるわけで。。。

大反省です。。。

本屋さんからも
「数やっても、ルーチンになっちゃうともったいない。そろそろ『量質転換』を。」
という言葉を頂きました。

また、寺子屋に2回参加して、自分が全然ダメだと感じたのが、
その前段階の部分です。

おそらく本屋さんって、施術しても全然疲れないですよね?!

施術側の体の使い方、そして患者側の体勢(初期設定)。
それぞれが両方とも一番効く体勢になっていると感じました。

例えば、患者さんの足三里を押すとき、
患者さんの足首は底屈してた方が効くのか背屈してた方が効くのか。
じゃあ膝は?股関節は?
じゃあその時の自分の体勢は?
等々、こんなこと今まで考えたことがありませんでした。
ここ数日、最初の一手から最後の一手まで見直し始めて
もがき苦しんでます(笑)

毎回、情報を整理しきれず頭の中がオーバーヒートしており、
自分の腑に落ちるまで時間がかかっておりますが、
この講習会に出会えて本当によかったです。

ちょうど一昨日でピッタンコ3000人でした。
次の1000人は、もがき苦しむ1000人にしたいと思ってます。
来月もまた宜しくお願い致しますm(_ _)m

D
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以上。
今回も長かったですね(笑)。
お付き合いありがとうございます。

年末特大号じゃありませんが、本屋さんが何を伝えたいのかが垣間見られるお二人の体験談だったかと思います。寺子屋のように多人数相手であっても、個人に合ったように伝授して行くことを大切にされている本屋さんなのでした(だから皆さんにも自己表現してねってよく言います)。これはオーダーメイド的な本屋さんの治療と同じであって、「愛」に満ちた教えであります。参加者のレベルはまちまちですが、基本的な「物事に望む姿勢」は共通する訳ですから今回の話も学生、新米先生の話ね、ということでは終わらないと思うのです。

意識改革を済ませたDさんの、今後の施術はドンドン変化して行くことでしょう。施術を受けた旅館はとてもお料理が美味しく、お部屋にこじんまりと露天付きの素敵な所だったので、また伺っちゃおうかなぁ〜。その時はまたお願いしたいと思います♪

ちなみに、ワタシが本屋さんに練習させてもらう時は決まって「勉強になるなぁ〜」で終わります(どういう風にやればいいのか、あるいはよくないのか、ということが再認識出来るの意……)。ほぼ毎回が撃沈です・・・。来年は卯年。ぴょんぴょんと飛躍の年にしたいもんです。

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2010年6月18日 (金)

治療家の良心

本屋さんの治療スタイルを貫いているのは、《治療家の良心》とでも言うか、治療家としての理想を実践されているな、ということです。ご本人は追い求めているだけ、とおっしゃるかもしれませんが、それを実際に行動に移している姿を見るにつけ、ワタシには治療家としてのあるべき姿と映るのです。

ある例を挙げて説明しましょう。先日、勉強会によく参加されているH先生が坐骨神経痛で別伝の練習に来られない日がありました。治療してもらいたいから別伝の終わる頃に教室へ来るというH先生に対し、別伝会場(フローリングのスペース)でも治療はできるけど、ちゃんとしたいのでとH先生の治療院へ伺う事になり数名同行させてもらいました。

伺ってみると痛くて動けないほどではなかったためか、治療に入る前に「ざっと5分位で普段やっている治療の流れを説明してみて」とH先生に指示。ワタシがモデルとなってベットに寝させてもらい、治療の流れを最初から再現されると、「そうするより、こうすると楽じゃない?」と、治療時の姿勢も大きな一因ですから、細かく洗いなおしていく作業が始まりました。

この作業中には「これが目的ならこうした方が良い」と、「なるほどぉ」という治療法をいくつもいくつも、出るわ出るわのオンパレード。H先生も頭が飽和状態と後でおっしゃっていましたが、それほどに実用的な内容ばかりでした。

そして、H先生はこの日を境に治療内容の大幅改正を決意することになりました。本屋さんの治療パターンに感化され、ご自身が数年続けてこられた治療法を捨てる決意ができた、と吹っ切れたのと同時に目がとても輝いていらっしゃいました。

ちょっと余談を。そのときに本屋さんから背中を緩める手技を受けたのですが、それ以来ずっと胆経のラインの詰まりがのびていて、座ったときに右足がちゃんと床に着くんです。実は普段は、帰りの電車で座ると「右足の外側が着かないな~」と本を開きながら思い、その後あっという間に寝入って自宅周辺に着く頃には伸びているというパターンでしたが、最近ではしょっぱなから着きます。これがもう2週間もキープされているのに驚きなのです。こんなのは数年前に新城先生に巨針を背中に打って頂いたとき以来です。

この手技は指をスジに当ててゆっくり離すだけ、というシンプルな動作です。ま、シンプルなものほど奥が深く、なかなか自分のものにはなりませんが、本屋さんはどんどん進化されて、今では指を置くとすぐにほぐれていきます。素人さん的には「神の手!触れただけで!!先生、気を出しているんですか!!!」と、目が飛び出そうな感じですが、本屋さんが「気」とかいう言葉で実技内容を説明することは多分一生ないと思います。きっとインチキ治療家なら間違いなくこの手技に仰々しい名前をつけて、神の手とか気がどうのこうのとか宣伝するでしょうが。

さて、冒頭に掲げている《治療家の良心》が今回のテーマです。何が良心なのかって言うとですね、「自分が何をしているのか」をちゃんと開示されるんです。患者さんにもわかりやすく説明されます。手で触れるだけでほぐせる世界ですから、自分を神格化して、ハンドパワー的に患者さんを信者化させるのはわけもない事なのですが、絶対にその線に入らないように注意されています。実際に行なっている治療行為を説明して、なにをして治しているのかを分かってもらおうとしています。

そして、多くの治療家がするように、自分の言葉で自分の世界を語る「何をしているのか」ではなく、一般的に常用されている日本語の範囲で、そしてなるべく解剖生理学の範疇で説明されます。その根拠がわかりやすい。といいつつ、霊的なこともやってはいるのですが(たぶん…です、そんな風にしか思えないところもあるので…)、それは分かるレベルにある治療家同士で語り合う場でしか本屋さんは言いません。初学者にそれを言ったら元も子もないですし、それは「治療をする」道を外す可能性もある危険なことだからだそうです。ちゃんと修業した事のある本屋さんだからできる霊的な事(たぶん…)を、初学者に易々と教えるようなことはしないのです。なので、例えば、ある種の病気で特徴的に出る手相、ってのは「知っているのもいろんな意味で危険だから」とワタシも教えてもらっていません。

それから「治療が必要な方になるべく最善の方法で治療をする」ことも挙げられます。H先生の時のように教室に来てもらうのではなく(その方が本屋さんは楽なのに)、自分が行ったほうが良いと思う場合は学生であろうが患者さんであろうが、早朝だろうが深夜だろうが関係なく、バイクに乗ってぴゅーと行かれるのを何度も見ています。イレギュラーな治療を頼まれた時も本屋さんには「面倒だな」という感じが全くしません。もちろんいわゆる治療院をやっているわけではないので、縁のある人だけですが……。

そして、他の治療家と異を放つのが「治療で生計を立てない」の信念。某学校で芸能人を治療していると自慢していた先生は、一回の治療で10万もらったと授業で話していました。その治療内容よりはるかに効果が出るであろうなぁと思われる本屋さんの治療ですが、良心的な治療費しか絶対に頂かない。患者さんが「こんなにして下さって申し訳ないから」と多く支払っていくケースがかなりありますが、値上げせず。

「治療で稼ぐようにはなりたくない。だから本業は他にあって副業でしかやらない」というポリシー。「なのに本業の人よりはできる、ってのがカッコイイでしょ」と、ニヤリと笑う本屋さんなのでした。

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2010年4月19日 (月)

グライダー製造工場より

前回のブログへのご感想ありがとうございました。学生さんからベテランの先生まで、皆さんの反響にワタシももっと書く意欲が湧いてきました♪

さて、その中のひとつ。マドンナ先生(古いw)的存在で鍼灸学生を癒しているクミコ先生から、現場より生の声を頂きました。是非公開したいと願い出たところ許可して頂けましたので早速アップさせて頂きます。

以下↓。

ブログ拝見いたしましたよっっっ!!この内容で私が感想送らなくて誰が送るんだっっっ!!ということで感想ですw

 流石は本屋さんを近くで見続け、学び、そしてそれをしっかり言語化できる能力に感服しました。m(_ _)m

 私が自分の人間性のひどさも省みず教員なんてものになったのもグライダー製造工場に成り下がっている学校、そしてそれに気づかず「真面目」に勉強している学生。そこんところをどげんとせんといかん(←古い)と思ったからなのです。半分ホントで半分ウソですがw

 一言で言えば「自分の頭で考える」ということが自分で立つ、飛行機人間になるということだと思います。(違うかな?)
 
 だから私も答えはすぐに見せないようにしてます。考えてね~って、軽く突き放します。すると、ブーイングが起きますww

 学校だから、教員だから、聞けば全て答えてくれると思ってるんですよね、大半の学生は。そして「学校の教員」という立場だとある程度答えなきゃいけないんですよね。そういう仕事なんで。

 でも私の場合は簡単には教えません。質問の仕方にもよりますが。すると、ブーイングが起きますww

 あほか!!!
 そんなこっちゃ一人で手練手管の患者の相手なんかできるかいっっっっ!!
 臨床なめんなコンチクショーっっっっ!!←自分はあんまりやってないのを棚に上げてwww
 と、思うわけです。口にもしますが。
 
 まあ、そういう意地悪なことをしつづけていくと勝手に気づいて飛んでいく人もいますし、グライダーなまま戦場に飛びたって行く人もいます。
 本屋さんはここの「意地悪」の仕方が抜群にうまいんですよね。そりゃ治療もうまいわってことですが。

 六然社に集まる先生たちは総じて教えるのはうまいですが、意地悪のうまさについては本屋さんが頭一つ抜けてますね~。

 私も寄金さんの呪い(←失礼www)を受け続けてきた身なのである意味真似しますが、私のは本当の意地悪になってしまうことが多々あります。ただのいやな人みたいなwww

 そこが難しいんですよ、教えるって。まあ何が言いたかったかというと、私にもよくわかりませんwwwww

 学生それぞれの問題はもちろん大きいのですが、やはり学校・教員の責任は大きいと思います。学校はビジネスです。これは金に汚いというのではなく、経営するということはそういうことですよね?

 だから試験するけど全入みたいなことも普通にあるわけです。正直「無理だろー」みたいな人も入ってきます。そのケツ拭くのは教員です。まあ、やるこたやりますけども。

 一方、ユルイことやって金をもらうこともできるんです、教員は。教員やってみての実感です。実技持っていなければ座学だけ簡単にこなせますし。学生の臨床能力に関する「責任」はほぼありませんし。

 かといって実技も国家試験にはありませんし、学内評価だけで卒業させることは出来ます。

 「学生にブーブー言われんのヤダからあんまり難しいことはやめとこっっっ!!それより国試の合格率あげなきゃっっっ!!」

 っていう学校、教員は多いと思います。知らんけも(笑)

 学生は自分の頭で考え、何かあれば声を上げ、でも思慮深く、
 教員は学生からのブーイングにビビらず、真剣に、でも柔らかく、
 
 こういうことが活発に行われれば変わると思うんですけどね~。
 難しいっす(爆)

 私は私で

 「人の嫌がることをしろ」

 これをおもいっきり曲解して行こうと思います(爆)

 では失礼します~。

鍼灸科叫員 拝

引用終わり。こういう心ある教員がいる学校は良いですね。ご本人の板ばさみ的お立場は察する以上に葛藤の日々であろうと思われますが、是非とも真意を学生に伝えて言って頂きたいと思います。グライダー製造工場の中でこっそり飛行機作り職人。そういった異色の職人先生に少しでも多くの学生が気付くと良いなと思います。クミコ先生、応援してます!!

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2010年4月 6日 (火)

本屋さん的教育論

昨年も新学期に合わせてちょっと思いの丈をぶつけてみました。学生さんに向けて書いた文章をさっき読み返してみましたが、大筋考えは変わっていないので、今年は教育とは何か、これを本屋さんの教え方に焦点を当てて書いてみようと思いまぷ。

一年生の頃から通っていた寺子屋メンバーが今年で卒業&無事に合格。時の経つ早さにいつもながら驚きます。自分に当てはめても、既に学校に行っていた年数と同じだけ鍼灸師をやってきているのか・・・と改めて感慨深く思います。学生としての視点からは随分遠くなってしまったかもしれません。逆に臨床を通して、鍼灸師とはというのを考える風になってきたかな、そんな風にも思います。

勉強会に参加されている学生さん達の顔ぶれが変わっても、聞かれる話しは相変わらず同じような学校への不満と、このままじゃ臨床ができるようになれるかという不安。個々人の表現の差はあったとしても、押しなべてこの2つが問題のようです。

そういった話に本屋さんは丁寧につきあっています。業界の批判はされるけど、その反面、学ぶ意思のある人間には門戸を温かく開く姿勢は、面倒見が本当に良くてらっしゃいます。質問にはその都度含蓄のある言葉を投げますが、相手の手を取って渡すのではなく、ちょっと歩かないと取れないような位置に、ぽーんと投げたりします。人によっては壁によじ登らないと取れない位置。初心者にはすぐに拾える位置。人を見ながら、どの程度進ませるか、そんな風に答えを差し出します。

こういった一見回りくどい方法に「付いて行けない」、いやいや「付いて行かない」人も現われます。「最近の人は求道心がないからね」と、先日とある学生さんの卒業祝いに鰻をご馳走されていた場でぽろっとおっしゃっていました。求道心とは無縁な人種は離れていきますし、すぐに役立つ(でも本当は役立たない)テクニックを求める人達には難解かもしれませんが、本屋さんはご自分のスタイルを崩さずに教えを授けていきます。

ところで、昨年のことですが、帰宅の電車で読む本がないから何か買ぉ~とふと立ち寄った書店で『思考の生理学』外山滋比古著 ちくま文庫 を手に取りました。「東大・京大で一番読まれた本」という安易な帯に惹かれただけだったのですが(笑)、読み始めてすぐに「こっこれは!! すぐにブログに書かねば」という衝撃の内容でした。って思いつつ、もう半年ぐらい過ぎちゃった。520円と安い本なので是非読んでみてください。

その本の一章目、そのトップに「グライダー」というタイトルで表現されている文章。P10です。これは鍼灸学校のことを言ってるのではないか??とびっくりしました。引用してみますね。

勉強したい、と思う。すると、まず、学校へ行く事を考える。学校の生徒の事ではない。いい年をした大人が、である。・・・中略・・・、新しい事をするのだったら、学校が一番。年齢、性別に関係なくそう考える。学ぶには、まず教えてくれる人が必要だ。これまでみんなそう思ってきた。学校は教える人と本を用意して待っている。そこへ行くのが正統的だ、となるのである。・・・中略・・・、いまの社会は、つよい学校信仰ともいうべきものをもっている。・・・中略・・・学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようだ。自力でとびあがることはできない。

グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことはできない。

学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間は作らない。グライダーの練習にエンジンの付いた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。優等生はグライダーとして優秀なのである。飛べそうではないか、ひとつ飛んでみろ、などと言われても困る。指導するものがあってのグライダーである。

3年間の学生生活で、多くの方がグライダーとして立派に成長していきます。しかし、鍼灸師として独り立ちするというのはグライダーではなく飛行機でないとだめなんです。だって、患者さんと対峙するするのには、どんな時でも判断力が必要ですから。小さいエンジン、中古のエンジン、借り物のエンジン、どんなエンジンだって構いませんが、とにかく自力で飛行する原動力が無いと治療家としてはやっていけません。

では、卒業した後、グライダーから飛行機に急にモデルチェンジできるのか。それは「否」でしょう。「卒業したら考えます」このフレーズをよく耳にしますが、それじゃ「遅い」という時間のもったいなさではなく、そもそも機種が違うわけですから、グライダーから飛行機になる訓練をまた別にしなくてはならないのです。それが卒業後苦しむ数年間、「3年間はまず食えない」の背景の一因ではないでしょうか。機種の差を論じる前に、「3年は食えない」と洗脳してしまう学校教育は置いておいて、飛行機の性能アップを目標に学生時代の3年間を過ごすのと、ひっぱられるがままに優秀なグライダーとして3年を過ごすのとでは卒後が変わるのは当然です。

寺子屋常連参加者の先生方は全員がまちがいなく「飛行機」ですし、遠方からブログを読んで来られる異業種の先生達、新規参加の先生も常に飛行能力バージョンアップを積極的に計っておられる先生方です。

そして、学生もやっぱり飛行能力を備えている方が多くいらっしゃっています。今現在のレベルは治療ができなくとも、治療をするに当たっての心構え、技術、身体を手に入れたくて貪欲に本屋さんを追っかけているように見受けられます。外山先生が書いているように、彼らは往々にして学校からは危険と思われているかも(笑)。授業の批判や学校批判を直接しますからね。寺子屋参加メンバーでもある、ワタシの同級生からしてそうでした。逆に1回で参加を止めてしまう方々は「グライダー」の毛が強いかな~、そんな風に感じます。

さて、話を外山先生の本に戻します。ここからが本屋さんの教え方そのものです。これを読んだとき、その通り!!と相槌を打ちながら電車の中で興奮したのを覚えています。

教育は学校で始まったのではない。いわゆる学校のなかった時代でも教育は行なわれていた。ただ、グライダー教育ではいけないのは早く気がついていたらしい。教育を受けようとする側の心構えも違った。なんとしても学問をしたいという積極性がなくては話にならない。意欲のないものまでも教えるほど世の中が教育に感心を持っていなかったからである。

そう言う熱心な学習者を迎えた教育機関、昔の塾や道場はどうしたか。

入門しても、すぐ教えるような事はしない。むしろ、教えるのを拒む。剣の修業をしようと思っている若いものに、毎日、薪を割ったり、水をくませたり、ときには子守までさせる。何故教えてくれないのか、当然、不満をいだく。これが実は学習意欲を高める役をする。そのことをかつての教育者は心得ていた。あえて教え惜しみをする。

じらせておいてから、やっと教える。といって、すぐにすべてを教え込むのではない。本当のところはなかなか教えない。いかにも陰湿のようだが、結局、それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。

頭だけで学ぶのではない。体で覚える。しかし、ことばでなかなか教えてもらえない。名人の師匠はその道の奥義をきわめているけれども、はじめからそれを教えるようではその奥義はすぐに崩れてしまう。

秘伝は秘す。いくら愛弟子にでもかくそうとする。弟子の方では教えてもらう事はあきらめて、なんとか師匠のもてるものを盗み取ろうと考える。ここが昔の教育の狙いである。学ぼうとしているものに、惜し気なく教えるのが決して賢明でない事を知って居たのである。免許皆伝は、ごく少数のかぎられた人にしかなされない。

師匠の教えようとしないものを奪いとろうと心掛けた門人は、いつのまにか、自分で新しい知識、情報を習得する力をもつようになっている。いつしかグライダーを卒業して、飛行機人間になって免許皆伝を受ける。伝統芸能、学問がつよい因習をもちながら、なお、個性を出しうる余地があるのは、こういう伝承の方式の中に秘密があったと考えられる。

昔の人は、こうして受動的に流れやすい学習を積極的にすることに成功していた。グライダーを飛行機に転換させる智恵である。

この「智恵」を本屋さんは随所に織り交ぜて講義をしますが、月に2、3回日曜日に行なわれている身体作り、別伝講習会で特に発揮しているように思います。別伝参加者の殆どは寺子屋も合わせてお出でになっていますが、寺子屋で受動形式で受け取ったものを、別伝の会で積極的に質問している姿をよく目にします。人数が少ないからでしょうか、稽古が終わってからざらに30分は質問タイムとなっています。その場で本屋さんは質問者のレベルに合わせて実際にやってみせ、相手が納得したかを確認しています。

ワタシが企画して来た勉強会は参加者が30~50名のものばかりで、大人数だと相手の反応、理解度が見れないからといつも渋々OKをもらっていたものです。ま、希望者が多いのでどうにもしょうがないんですけど。その中でもっと教えを乞いたい方は別伝へ参加するコース、そういう熱心な受講者を受けてもらえる場ができたのでそちらへ進んでもらえれば更に勉強になるのではと思います。教える側の葛藤が緩和する人数相手に誰よりも動いて、積極的に指導されている本屋さんの後姿を見て、「本当はこうやって教えるものだ」そう言いたいに違いない、と別伝が始まってそろそろ一年ですがつくづく思います。

この本の初版は1986年です。24年も前からこういった流れが教育現場にはあったのですね。それがもっと顕著になって来ているのが最近なのでしょうか。本屋さんの教育は「教える」というよりも「育てる」だと思います。人生を切り開く力を付けさせるとでも言いましょうか、本人が自力で歩いていくのを応援している、そんな風な教え方です。ですから、手に手を取るような分かりやすいことから、本質を突く難解なお題まで幅広く、教わる側の先、未来を見て関わっている、そんな気がします。

だからこそ、長いスパンの元に勉強させてもらう方が本屋さんの意図が見えて来るに違いありません。それが分かっているからこそ、殆どの寺子屋参加者は数年間続けていらっしゃっているのだと思います。時間を掛けて磨いていくこと(これは本屋さんの武術系のお仲間がおっしゃっていた単語です)である技術や心構え、これは人生そのものと言えるかもしれません。生き方そのものが治療に現われる、そんな風に本屋さんを見ていると思います。

因に本屋さんは「じらして教えない」ということは殆どしません。むしろ教えすぎるくらいです。いらしてくれる人達の可能性を信じているので、好きなものを持って帰ればいいというスタンスで、決して自分のやり方や考えを押し付けたりはしません(だからいつも「◎◎方式に拘泥するのはおかしいんじゃない?」と自由さを求めます)。質問にも応えますが、押し付けはしません「僕はこう考えるからこうするけど、別な考えもあるかもしれない」「こういう風に考えている人はこういう手段をとるのだろう」等の解説がつきますが、大抵、質問した人がより考えざるを得ないような解説が投げ返されます。質問力が試されるのでいつも「なにか質問はありませんか?」という問いそのものが、教育になっちゃうって言うか……。そして、だけど押さえなきゃいけない事はココ、ということだけはしっかり言います。そしてその“ココ”と向き合う事が実は結構地味でしんどいんですけどね(苦笑)

さてさて、新学期が始まりましたね。グライダーから飛行機を目指して新学期を迎えてはいかがでしょうか。目標が変われば視点も変わり、行動も変わり、はては人生までも変わる。治療家とは結局、自分の足で立たずしてはなり得ないものですから。

余談ですが、ワタシもまだまだグライダーから飛行機になってきてるか、きていないか、といった程度です。ワタシの場合はひっぱってもらう飛行機が抜群にすごかったグライダー、そんなところです。見た目にはちょこっとエンジンがついていますが、これがまた上手く起動しないし、右往左往、上昇したかと思えば墜落寸前の日々を繰り返していますです(笑)。が、そうはいっても自分で操縦桿を握る世界は悪くないですよ。

本屋さんが見立てる身体観、色んなフェーズから細かく見取る技術と経験は素人目には「透視術」とも言えますが、そんな風に人体を見る事が出来たら・・・・、そのステージに登って見たいなぁ~と憧れて寺子屋に皆さん集まってくるのだと思います。

そうそう、今回の話に合わせて新しくカテゴリーを増やしました。題して《本屋さんの教え》です。ワタシ自身、治療院のペースも最近掴めてきましたので、今までを振り返ってまとめる作業を始めたいと思います。みなさんのご参考になる事を書ければ良いのですが・・・、頑張ります♪

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